【福岡県】世界に誇る小倉前寿司の神髄
今回で2回目となった九州遠征。九州の玄関口とされる福岡県北九州市には今、国内のみならず世界中で注目されている寿司がある。JR小倉駅から徒歩3分。著者は『鮨 塚本』の門戸を叩いた。
食材の味を活かす小倉前寿司
九州近海の幸を中心に、独自の味付けと華やかな見た目で完成するその寿司は、東京の「江戸前」ならぬ「九州前」・「小倉前」と呼ばれる。『天寿し 京町店』は小倉前寿司を代表する名店。完全予約会員制のうえ、1年は予約が取れないとネットで噂が流れるほどの超人気店だ。そんな中、偶然入ることができた隠れ家的なお店『鮨 塚本』も有名高級寿司店の一つ。以前はミシュランガイドに掲載された実績もあるのだとか。
趣深い暖簾をくぐった先には品のあるカウンター席が6席ほど。奥にはお座敷個室が2室構えている。良質な食材と洗練された職人鮨の本物の味に魅了された。
醤油を使わず、かぼすと塩でいただく
小倉前寿司の特徴は江戸前と違い、醤油を使わない。理由は食材本来の味を活かす為にある。地元で獲れた白身、青物、貝類、イカなどがネタの中心となり、かぼすや塩で味が足される。大将は最初に醤油と岩塩を出したが、「どれも塩が合う」と一言。言われるまでもなく全て塩でいただく。
鮨 塚本 ディナーメニュー(15,000円)
此処ではランチメニュー(10,000円) とディナーメニュー(15,000円 / 18,000円) があり、その日の新鮮な魚を大将が握るおまかせスタイル。初めての小倉前寿司はディナーメニュー(15,000円) でいただいた。
ホタルイカのたたきは焼き昆布と合わせて食べる。お酒の肴としては至極。僕は初めての小倉前寿司の味がわからなくなるのが怖くてこの日お酒は飲まなかった。笑 大将は「お酒を我慢できるなんてすごいねぇ。私は無理です笑」なんて言って場を和ませる、気さくな方。
調理場の頭上には七福神の飾り物がある。「最近まで知らなかったんですけど、日本の神様は恵比寿様だけなんですよね。」と言うと「3柱は中国、3柱はインドの神様で弁財天だけが唯一女性です。」と大将。流石です。。
他にも魚の水揚げ量の有名な場所だったり、静岡県が誇るわさびの話を交わした。
旨味凝縮の職人鮨 小倉前寿司
ここから旨味が熟成された大将の握り寿司が14貫続く。シャリは米酢と橙(だいだい)酢をブレンドしたシャリと、
「どちらが好きですか?」と聞かれしばらく答えられず、「甲乙つけ難いですけど、強いて言うなら北海道産が好みです。」と言ってしまった。笑 すると大将は「実は九州の雲丹の旬はズレてるんですよ。これからの時期が美味しくなっていきます。」とのこと。なるほど、それはまた次の機会に是非味わいたい。
こんなに美味しい寿司を食べたことがなかった。かぼすと塩がこんなにも寿司に合うとは。大将が握った後に出される寿司を眺めていると数秒間かけてシャリとネタが沈んでいく。どんな風に握ったらそうなるのか。笑 こんなところにも職人技を感じた。どれも美味しかったことは言うまでもないが、僕のお勧めはアジ。是非薬味と一緒に味わってほしい。
寿司の他にも塩汁やガリなどの脇役も全く妥協がない。味だけでなく、寿司を握るタイミングや熱いお茶を出すタイミングまでも全て計られているようだ。世界に誇る北九州の寿司は、食材を活かす独自の食べ方と細かい確かな技術、その全てが日本人のおもてなしの心に支えられて成り立っていたのである。それが小倉前寿司の神髄だ。
「ご馳走様でした、人生でいちばん美味しいお寿司でした。次はお酒もいただきます。」
良かったです、と笑顔で玄関まで見送っていただいた大将に一礼し、店を後にした。
旅の本棚
伝統工芸品・博多織
福岡県に来た理由がもう一つあった。日本三大織物に数えられる、伝統工芸品・博多織。流麗な献上柄が映える博多織をグッズとして販売しているブランド「HAKATA JAPAN」へ向かった。
母の日が翌々日に迫っていたことに気づき、写真には映っていないものをそれぞれ購入。実家に即配達。気に入ってくれたようで良かったと思う。
自分用にブックカバーを検討していたが、女性的なデザインのものしか在庫がなく断念。代わりにマスクケースを購入。この時世だからこそ生まれた伝統工芸品の新しい形にも感銘を受けた。
博多明太子
最後に。九州初上陸した2年前。博多といえば明太子、ということでついでに紹介。
これを食べなきゃ博多明太子は語れない!
【北海道】最後の武士に想いを寄せて
著者にとって思い出の地、北海道。札幌市の祖母の家から車でおよそ250km。道南の果てで、日本最後の武士の生き様に心を打たれた。
日本初稜堡式城郭・五稜郭
稜堡式城郭(りょうほしきじょうかく)とは大砲を主要防御武器として設計された築城方式のことで、大砲は互いに死角を補うように全方位に展開される。そのため星形要塞ともいわれる。
函館市にある五稜郭は、幕末に箱館を開港した際に、函館山の麓にあった箱館奉行所の移転先として築城された。設計・建設は箱館奉行所に勤務していた蘭学者・武田斐三郎で、箱館ではアメリカのマシュー・ペリー提督とも会談している人物である。面積は約251,000㎡で東京ドームの約5倍の広さがある。(公式ホームページより)
明治時代では戊辰戦争における新政府軍と旧幕府軍との最終決戦の地として知られている。歴史好きの人は是非、「五稜郭タワー公式ホームページ」を一読していただきたい。
最後の武士「土方歳三」はなぜ戦い続けたのか
本題に入る前に一言。自分の言葉には責任を持っているが、史実以外の部分については個人の推察に過ぎないことを予め断っておく。
前述した戊辰戦争の最終決戦(以下箱館戦争)で、新政府軍を相手に最後まで戦い続けた新撰組副長・土方歳三。勝機のなかった戦いにも拘らず何故抗い、独り戦い続けたのか。
考察① 滅びの美学の否定
我が国には「滅びの美学」という言葉がある。これは過去の記事で日本語の奥深さを紹介した際の「終焉の美」の考え方と共通する。(こちらも面白い記事なので是非↓)
ここでの「滅びの美学」とは、到底勝ち目のない敵に立ち向かい、死を覚悟して勇ましく散っていく人の姿をいう。我が国では「新撰組」をはじめ、大戦時の「神風特攻隊」、個人では小説家の「太宰治」、同じく政治活動家でもあった「三島由紀夫」などに充てられることが多い。
土方歳三もまた「滅びの美学」に過ぎないと評する者がいる。果たして本当にそうなのだろうか。一度そう決めつけてしまうと、分かった気になってしまい、何を成し遂げようとしたのか、何を望んでいたのか、心情を理解することを怠ってしまう。「建て前」だけで命を掛けられるだろうか。
否。土方に滅びの美学を感じるかは人それぞれだが、敢えて言おう。少なくともそれだけが理由ではなかった。
考察② 前将軍・徳川慶喜への忠誠心か
他方、土方は「前将軍・徳川慶喜のために戦い続けた」という説もある。確かに土方含む新撰組隊士は幕臣にとりたてられているから、主君は第15代将軍の徳川慶喜であった。この考察は時代背景を分かりやすく解説しながら紐解いていく。
尊皇攘夷運動
1867年、徳川将軍によって朝廷へ政権を返上した。(大政奉還)これにより徳川家康が1603年に江戸幕府を開いてから約265年間続いた江戸時代は幕を閉じる。大きなきっかけとなったのはペリー来航を引き金にした日米和親条約や日米修好通商条約だった。一気に外国からの圧力がかかり、それに対抗しようと考える人々もいた。
このように外国を倒して朝廷の権威を重んじる考えのことを尊王攘夷(そんのうじょうい)という。その中心であった長州藩は、実際に外国船を砲撃しているが翌年には下関砲台を占領されている。 他方、薩摩藩は島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回りの藩士たちが殺傷した。(生麦事件)しかし、これもまた報復を受けることになる。
プチ解説「尊王攘夷派」
尊王攘夷の「尊王」とは、王=すなわち「天皇」を敬うことで、「攘夷」は外敵(外国の侵略)を撃退することに由来する。元々は「幕府の為に」ではなく「天皇の為に」という尊王論と、外国人を追い払うという攘夷論が結びつき、下級武士を中心として尊王攘夷運動が起こった。幕末には外国船が頻繁に日本近海に現れるようになり、食料や水の補給、日本との交易などを理由に江戸幕府に対して開国を要求した。
開国・倒幕へ
長州藩などの尊王攘夷派は、次第に外国を倒すことは難しいというように考えを変えていく。たしかに日本の鎖国時代に近代化を図っている諸外国を打ち破ることはかなり厳しいものだった。このような倒幕の動きで有名なのが薩長連合である。西郷隆盛や大久保利通の薩摩藩と、木戸孝充や高杉晋作の長州藩との連合であり、仲介を行ったのが坂本竜馬である。これが後の新政府軍になる。
プチ解説「大政奉還の狙い」
このような倒幕の流れを受けてついに徳川将軍は朝廷に政権を返上することとなる。これは薩長による武力討幕を避け、徳川家の勢力を温存したまま、天皇の下での諸侯会議であらためて国家首班に就くという策略だった。
幕府が目指した公武合体
尊王攘夷に対して「公武合体」という言葉がある。公武合体(こうぶがったい)の「公」は公家 = 京都の朝廷(天皇)を指し、「武」は武家 = 江戸の幕府を意味する。幕府は外国が開国を要求してくる難局に、もはや江戸幕府の力だけでは立ち向かう事ができないと考え、朝廷と幕府を合体させ国難に対処しようとした。弱まりつつある江戸幕府の体制を、朝廷の伝統的権威と結びつけることで政治を建て直そうとした。
プチ解説「新撰組の結成」
1863年、会津藩と薩摩藩を主とする公武合体派によって長州藩を中心とした尊皇攘夷派と急進派の公卿たちを京都から追放するといった八月一八日の政変(文久の政変・堺町門の変)という抗争が起こった。
この八月十八日の政変において主力であった壬生浪士組(新選組の前身)は、その内部で尊王攘夷派として寝返り江戸に戻った新徴組と、幕府守護の為に京都に残った者に分裂した。そして京都に残った者たちは会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)配下京都守護職として新撰組を結成した。
鳥羽・伏見の戦いへ
1868年1月3日、明治天皇は王政復古の大号令を発し、政権は朝廷へと返上され正式に江戸幕府の廃止が宣言された。そして、旧幕府軍と新政府軍との内戦、戊辰戦争が勃発することとなり、土方も幕臣として新選組を率い幕府存続のための戦いに身を投じることになる。鳥羽・伏見の戦い、これが戊辰戦争の初戦である。
旧幕府軍は外国から近代兵器を取り入れた新政府軍の圧倒的戦力の前に完膚なきまでに叩きのめされた。アームストロング砲といった強力な近代兵器による爆撃に対し、日本刀で立ち向かったとしても勝機などもとよりあるはずがない。土方はこの時には既に、自分の運命を悟っていたのではないだろうか。
前置きが長くなったがここでの考察は以下に結論づける。
戊辰戦争が勃発してまもなく、徳川慶喜は自ら政権を手放し、鳥羽・伏見の戦いでは家臣らを置いて自分だけ江戸に逃げ帰った。その後慶喜は新政府軍にさっさと恭順する。家臣らも次いで恭順する中、さして縁もない土方は戦い続ける道を選んだ。
したがって土方は慶喜の為に戦ったのではなかったと言える。
考察③ 己の武士道と盟友・近藤勇
土方が戦い続けた理由、その答はここにあるのではないかと著者は思う。
まず、一つとして王政復古の大号令と鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が朝敵(天皇の敵)とされている。ここまでの流れが、薩長の謀略によって行なわれたことが納得いかなかったのだ。正々堂々とは言えない策略によって「賊軍」のレッテルを貼られたことに、幕府側の人間は憤怒した。新撰組副長の誇り高き男、土方はどうしても許せなかったはずだ。
そしてもう一つ、土方が戦い続けた理由の最大のものと考えられるのが、新撰組局長・近藤勇の存在だ。
甲州での敗北の後、近藤・土方は新政府軍に包囲された。切腹しようとする近藤に土方は、「今死ぬのは犬死であり、幕府歩兵頭・大久保大和が、諸方の歩兵をとりまとめるため出張していると言えば申し開きはできる」と説得した。要するに、変名を使って投降して極刑を免れようとしたのだ。新政府軍本営に出向くと言う土方を制して、近藤は自らを犠牲にして本営に出頭し、その間に土方以下を脱出させた。
しかし、新政府軍本営で、大久保大和は新選組局長近藤勇であることが露見された。土方の願いは叶わず、近藤は1868年4月25日、板橋宿の馬捨場で、切腹することも許されず、罪人として斬首された。
新政府軍は近藤を新選組局長と知りながら、武士としての切腹ではなく、罪人として斬首した。これは武士の誇りを泥足で踏みにじったことに等しい。盟友を犠牲して生き長らえた土方は、せめて切腹させてやりたかったと後悔したことだろう。そしてこれは幕末に命がけで任務に当たった新撰組を根底から否定するものであり、新撰組副長として断じて許せるものではなかった。もし自分が降伏するようなことがあれば、新撰組の否定を自ら認めることになる。それでは新撰組を信じ、命懸けで戦った隊士たちにも顔向けができない。
土方は最後の決戦に向け、北を目指した。
誇り高き武士道の精神は運命を貫く。
1869年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始された。土方の最期については諸説あるが、乱戦の最中に腹部に銃弾を受け、落馬したとされる。奇しくも盟友・近藤と同じ享年35であった。それから一週間後、榎本武揚ら旧幕府軍幹部は降伏し戊辰戦争は終結へ向かう。幹部の中で土方は一人、ついに降伏をせず、己の武士道を貫き、新撰組の誇りを守った。
時世の句は「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」
おわりに
先述した「滅びの美学」について列挙した日本人に限らず、僕たちはどうしても先入観を持ってしまう。だが、いずれもそれだけの理由で命を賭す者はいないだろう。
新撰組は日本史上では敗者(歴史的に見て間違った勢力)となった。しかしそれは開国して産業が発展し、恵まれた現在があるからこそ言えることだ。元から尊王派だった彼らは鎖国時代に突如現れた、得体の知れない異国人が恐ろしかった。ただ国を、天皇を、家族を守りたいという真心を抱いていた。それだけは当時の新政府軍人であっても、外国人も、現代人でさえも誰も嘲笑うことはできない。彼らが何を想い、何をなそうとしていたのかを見つめ、その魂に想いを寄せて明るい未来を考える。
旅の本棚
【群馬県】日本一の伝統名泉・草津温泉を訪ねて
2018年夏。現役の高校球児だった実弟が地方大会決勝戦でサヨナラ安打を放ち、甲子園出場を決めた夏。著者は「熱闘甲子園」ならぬ「熱湯格子園」(湯畑)を求め関東を目指した。笑
日本3名泉「草津温泉」
群馬県の草津温泉は、下呂温泉(岐阜県)と有馬温泉(兵庫県)とともに日本3名泉の1つとして数えられており、自然湧出量は毎分3万2300L以上で日本一を誇る。いまいちピンとこないが、1日にドラム缶23万本分の温泉が湧き出るらしい。いや想像できない。笑
更には、2020年に行われた観光経済新聞社主催の「第34回にっぽんの温泉100選」において ”18年連続1位” を獲得している。まさに日本を代表する名泉である。
恋の病以外全て効く!?
草津温泉は「恋の病以外効かぬ病はない 」と言い伝えられているほど効能高く、古くから薬湯と知られている。その成分を調べてみた。
泉質
- 酸性泉
- 硫黄泉
- アルミニウム
- 硫酸塩泉
- 塩化物温泉
効能
適応症として
このように多くの効能がある。健康な人でも血流が良くなったり、肩こりが改善されたり、代謝が上がったりと良いこと尽くし。五十肩や虚弱児にも効能があるらしい。本当に恋の病以外は治るのかもしれない。
しかし、草津の源泉は50℃〜90℃前後で、調整がされていても比較的高温となっている。また酸性泉や硫黄泉の影響で皮膚が敏感な人や、小さな子供は特に注意が必要。禁忌症とは1回の入浴でも体に悪い影響を及ぼす恐れがある病気や病態のこと。
これを以下に記す。
禁忌症として
- 急性疾患
- 結核
- 悪性腫瘍
- 心臓病
- 呼吸不全
- 腎不全
- 出血症疾患
- 貧血
- 皮膚、粘膜の過敏な人 など
水風呂でも言えることだが、急激な温度変化は体に負担が掛かる為、かぶり湯をして馴染ませてから入浴することを勧める。正しい入浴法で癒しのひと時を。
草津のシンボル「湯畑」
そもそも湯畑とは、温泉の源泉を地表や木製の桶に掛け流し、「湯の花」と呼ばれる温泉の不溶性成分が析出・沈殿したものを採取し、湯温を調整する為の施設である。また、有害な濃度の硫化水素を除去する役割もある。
草津温泉はこの湯畑がシンボルとなっており、夜間はライトアップされ、沸き立つ湯けむりが幻想的なシーンを演出する。
江戸時代より伝わる伝統入浴法「湯もみ」
先述したように草津の源泉は50℃を超え、もちろんそのまま入浴することはできない。水を足して温度を調整することは容易いが、それでは効能が薄れてしまう。そこで江戸時代の人々は、約180cmの板を熱い源泉に入れてもみ、入浴できる温度まで下げる「湯もみ」を考え出した。現代ほど医療に頼れない時代に、高い効能を備えたまま入浴できるように工夫を凝らした先人たちには感服する。
そんな背景のもとで今もなお受け継がれている「湯もみ」は「熱乃湯(ねつのゆ)」で年間を通して「湯もみと踊り」ショーが開催され、そこでは「湯もみ体験」ができる。
※新型コロナウイルスの影響により現在はショーのみ。
「熱乃湯」の建物の外観は大正ロマン風。
温泉紹介
西の河原露天風呂
開放感抜群の露天風呂。深い緑と青空の下で温まるお風呂は格別。いくつか温泉めぐりをした中で最も強い印象が残っている。注意点としては体を洗うシャワースペースが無く、「脱衣所すぐ風呂」の構造になっている。草津はこういったお風呂が多い為、気になる人は事前に調べて行くこと。
下記のサイトで紹介している「御座之湯」と「大滝乃湯」とともに草津三湯めぐりは如何だろうか。
共同浴場
草津温泉には共同浴場と呼ばれる、地元の人の為に設置され、地元の人が管理しているお風呂がある。「地蔵の湯」に入ろうとしたが、源泉かと疑うほど熱い。兎に角熱い。皮膚剥がれる。地元のおじいちゃんは脱衣所で服を脱ぎ、かけ湯をした瞬間10秒ほど肩まで浸かって速攻で帰っていった。あっぱれ。
入浴する際は要注意!そして日本人としてのマナーを忘れずに。
何百年もの間、日本人の心と体を癒してきた温泉。日本一の名泉と言っても過言ではない草津温泉。人気の裏には恵まれた土地や泉質だけでなく、先人の知恵や独自の伝統が今の温泉街を支えていた。どんな時代になろうと温泉は日本人に愛され続ける。そしてこの日、これからの旅には温泉がつきものになると確信した。
【山梨県】永く郷土で愛されるほうとうパワー
山梨県の郷土料理ほうとう
僕が冬になると毎年食べたくなる静岡のおでんと山梨のほうとう。寒い日は特にこういったもので温まりたい。そんなわけで今回は、農林水産省が選定した「農山漁村の郷土料理百選」の中の1つ、ほうとうに纏わる話。
ほうとう と うどん の違い
ほうとうはうどんの麺と比べると平たく太く短い。そしてきしめんよりも幅が広い。しかし、1番の違いは調理方法で、ほうとうは麺を打つ際に塩を練り込まず、麺を湯掻いて塩分を抜く手順が無い。うどんと違って麺のコシが求められず、生地を寝かせる手法は少ない。うどんは麺を中心として味わうことが多いが、ほうとうは生麺の状態から煮込むことで汁にとろみが増し、他の素材と一緒に味わうような食べ方が主流である。
栄養満点!
ほうとうの具材はハクサイ、ニンジン、カボチャ、キノコ類などの野菜が中心で、家庭的なものは油揚げを入れることが多い。ほうとう専門店では鶏肉や豚肉を入れたものもある。ほうとうは野菜のビタミンと食物繊維が多く含まれ、小麦粉やイモ類のデンプン質、味噌や肉のタンパク質など栄養満点の料理といえる。
厳しい環境だからこそ生まれた食文化
山梨県のような山間部の冬は寒さが厳しく、平坦地に乏しい。また富士山の影響で気候変動が激しく、水利に乏しい溶岩台地が広がる。これは水田稲作に適さない土地であることを意味している。
他方、麦は富士北麓で流水を用いた「水掛麦」*1 により、ほうとうやすいとん料理などの粉食文化が根付いた。今日では文明の力により、新潟県で栽培されたお米を容易く大量に運ぶことができる。しかし、自動車もなく道も整備されていない時代に、山梨県民の毎食分のお米を運ぶのは不可能である。平野部ではお米の生産をし、山間部では麦の生産に尽くすことで貴重な栄養分を確保していた。
現在、静岡県や長野県の山間部でも「そば」「うどん」の看板が多く見られるのはそういった理由があるのかもしれない。
豆知識
野菜・果物類の名産地としてよく挙げられる北海道、長野県、そして山梨県。これらのちょっとした考え方を紹介する。
- 北海道:根菜類の生産量が多い
例:玉ねぎ、人参、じゃがいも、大根、かぼちゃなど
- 長野県:葉物・キノコ類の生産量が多い
例:レタス、セロリ、榎茸、松茸、しめじなど
- 山梨県:果物の生産量が多い
例:葡萄、桃、すもも、さくらんぼなど
こうして覚えるといいかも!(この知識がどこで活きるかは知らない)
武田信玄公との繋がり
ほうとうは「甲斐の虎」と呼ばれた戦国武将・武田信玄(1521~1573)と関わりがあるといわれている。
信玄の領国であった甲斐(現在の山梨県)は、先述したように山地に囲まれた山国で、米をつくるのに必要な水田が他国よりも少なかった。その為、この地域では山地をきりひらいて畑をつくるようになり、大豆や小麦、そばなどの粉食を中心とした文化が発達していった。加えて、米を炊いておかずをそろえるより、手軽に調理ができるほうとうは、まさに理に適った陣中食 *2となりえた。
世に名高い武田軍を支えたのが、甲斐の風土が生んだ陣中食、ほうとうだったのである。
オススメのほうとう専門店
ここで特に勧めたいほうとう専門店を紹介する。
①甲州ほうとう 小作
王道は甲州ほうとう 小作。人気メニューの「かぼちゃほうとう」をはじめ、10種類を超えるほうとうがあり、店舗の展開も多い。ほうとうを一度も味わったことがないのであれば、最初に行く店としては最有力候補になるだろう。小作では、信玄が愛したほうとうにちなみ、武田家の家紋である「四つ菱」を掲げている。
②ほうとう不動
僕が初めてほうとうを食べに訪れた店が此処、ほうとう不動。ほうとう不動の麺は自家製麺に拘り、コシのある麺を楽しむことができる。中でも東恋路店は世界の多数の建築賞を受賞した、建築家の保坂猛氏によって設計された。歴史あるほうとう専門店では珍しく、斬新且つモダンな店構えになっている。
③御坂峠本店 天下茶屋
河口湖北東の御坂峠にあるのが天下茶屋。オススメは「きのこほうとう鍋」でなめこ好きにはたまらない一品だ。多少肌寒くても、敢えて富士山と河口湖が一望できる縁側でいただくのを強く推奨する。当店は太宰治の小説「富獄百景」の舞台にもなっており、実際に太宰が3ヶ月間滞在していた事でも知られている。2階には太宰治文学記念室が併設されている為、読書好きの方は是非立ち寄ってみては如何だろうか。
④ほうとう蔵 歩成
ほうとうの味を競う大会で3連覇の実績を持つほうとう蔵 歩成。店内には四つ菱の家紋を背負った甲冑が飾られており、晴れた日には壮大な富士山が後ろにそびえる。(記事トップ写真)
数あるほうとう専門店でも甲乙つけがたいが、個人的には最強だと思う。その理由を述べる。
看板メニューの「黄金ほうとう」は豚肉入り or 鶏肉入りを選ぶことができる。ほうとうは素朴な味わいだがその反面、後半になると飽きてくる人もいるのではないだろうか。ところが歩成では、特製の辛味噌によって味変ができる!また、冬季限定で渡り蟹が入ったほうとうがある。基本的にほうとうは煮干しで出汁をとるが、そこに渡り蟹の出汁が加わればより格別だ。
そして実はサイドメニューも美味しい。甲州地方名産の「馬刺し」は鮮度がよく、口当たりが柔らかい。
もう1つ絶対に食べて欲しいのが、「ホルモン焼き」。味噌の味付けと焼き加減に加え、レタスと質の良いマヨネーズ。全ての要素が完璧なホルモン焼きは是非味わっていただきたい。この店を知っている知人3人と僕は口を揃えて言う、『結局、ホルモン焼きが一番旨ぇ』と。(それだけは言うな笑)
まとめ
以上、ホルモン焼きの話でした。
では終われないか。(笑)
さて、今回は山梨県の土地が生んだ郷土料理、ほうとうにスポットした。古くから永きに渡り愛される理由、それは栄養バランスが良く、作り方も容易で、身も心も温まる万能な料理だということにある。
ほうとうとは対照的に、お米で作られる秋田県の郷土料理「きりたんぽ」にもいつか出逢いたい。いや必ず。
(以下注釈)
【愛知県】四季桜と紅葉が織りなす色彩美
秋に咲く四季桜
もう2年以上前の事。秋に咲く「四季桜」をひと目見ようと愛知県豊田市の「川見四季桜の里」へと向かった。
四季桜は、狂い咲きではない状態で年に2度、花を咲かせる。四季桜の花弁は白色に近い、薄い淡い紅色。例年4月上旬と10月末に咲き、江戸彼岸と豆桜の雑種とされている。特に豊田市の小原地区には歌舞伎、和紙とともに古くから地域に根付いており、例年「小原四季桜祭り」が開催されている。 (2020年はコロナの影響で中止)
www.kankou-obara.toyota.aichi.jp
日本人にとって特別な桜
桜の種類
日本には桜属として100種ほどの桜が自生しており、そのうち秋〜冬に咲く桜は十月桜や冬桜を含め6品種存在している。尚、栽培品種は200種以上で、スモモ属を合わせると600種以上といわれる。また、日本の街路樹はイチョウが最も多く、桜は2番目に多い。
花といえば桜
桜は奈良時代には日本に存在していた。当時は仏教を中心に中国文化に強い影響を受けていたこともあり、花といえば唐から輸入した梅を指していた。その後平安時代に国風文化の影響下で桜は観賞用として広まり、花といえば桜という意識が根付いていく。日本人に馴染み深い「お花見」は、「桜見」とは言わない。この言葉そのものが花といえば桜、という日本人の意識を象徴している。
新時代を拓いた梅花の宴
2019年5月1日から元号が「令和」に変わった。その出典が『万葉集』の梅花の歌、三十二首の序文が典拠となっていることはあまりにも有名だ。
『初春の令月にして気淑く風和らぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす』
「時あたかも新春の好き月(よきつき)、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉(おしろい)のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている」
(「令和」を考案したとみられる中西進氏の昭和59年の著書「萬葉集 全訳注 原文付」での訳)
令和の言葉の魅力
これは余談だが「平成」までの247の元号すべてが中国の古典を典拠とされていたが、日本の古典から引用されたのは初めてのことである。新元号発表直後には「令和」は英語で「beautiful harmony」と訳され、手話表現を「つぼみが開いて花が咲くように指先をゆっくりと開く動き」として採用された。後になって新元号の最終候補に残った6案が公表されたが「令和」が何よりも美しく、最も響きが良いと感じた人は多かったことだろう。
日本人の精神を象徴する桜
桜では開花のみならず、散って行く儚さや潔さも愛玩*1 の対象となっている。 古くから桜は、諸行無常*2 といった感覚にたとえられており、ぱっと咲き、さっと散る姿ははかない人生を投影する対象である。
また日本では国花が法定されておらず、天皇や皇室の象徴する花は菊であるが、特に明治時代以降は、サクラが多くの公的機関でシンボルとして用いられており「事実上の国花」のような扱いを受けている。旧日本軍(陸軍・海軍)が桜の意匠を徽章*3 などに積極的に使用したほか、明治時代の軍歌・戦時歌謡の歌詞に「桜」「散る」という表現が多用され、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には「桜花」や「桜弾機」など特攻兵器の名称にも使われた。
最近ではラグビー日本代表は、エンブレムに桜を用いている。海外では「Cherry Blossoms」「Brave Blossoms」と呼ばれる。
(Wikipedia より一部引用)
四季桜と紅葉が織りなす色彩美
桜と紅葉を同時に鑑賞できる不思議な空間。上の写真は中央の1本の木を境に季節が共存しているかのようだ。
四季桜の花弁の色は白に近い。紅葉の紅がアクセントになって相性が良いのは日本語の色の概念を知ると理解できる。
色彩美の謎
日本語の色は4色しかなかった
光の三原色はR(赤)、G(緑)、B(青)である。色を表現する時には「赤いリンゴ」など形容詞に変換できる。しかし「緑」はどうか。「緑い葉っぱ」とは言わない。(笑) 他方「青」は「青い空」と言うことができる。
他の色の名前でも試してみると、色の名前+「い」を付けられる言葉は実は4つしかない。
それは「赤」「青」「白」「黒」のみ。
いやいや「黄」の場合は「きいろい」と言うじゃん、と思った人。これを漢字で書くと「黄色い」で「色」という別の言葉が入っていることが分かる。「黄いレモン」とは言わないだろう。(笑) 同じように「茶色い」とは言うが「茶い」とは言えない。
この4つの色名には後ろにそのまま「い」を付けても自然に使える。形容詞として使用できることから、日本語で昔から使っていた色は「赤、青、白、黒」の4つだったと推測されている。
4つの色の語源
この4色の色名の形容詞と語源を次に記す。
( 色名 形容詞 語源となった言葉 )
- 赤 → 赤い → 明るい
- 青 → 青い → 淡い (薄いの意味)
- 白 → 白い → 著し (しるし 又はしろし = はっきりしているの意味)
- 黒 → 黒い → 暗い
つまり昔の日本語では、色の識別は「明るさ」と「濃さ」だけで判別されていた。日本史上、文字が使われるまでは特定の色を示す言葉はなかったとされている。
日本語学上特別な4色
ここでさらに話を深堀りしよう。先の4色は副詞にも変換ができる。副詞とは形容詞と同じく、修飾する役割を持つ言葉である。 形容詞は名詞を修飾するのに対して、副詞は形容詞や動詞などを修飾する。
( 色名 形容詞 副詞 +例文 )
- 赤 → 赤い → 赤々と 燃える
- 青 → 青い → 青々と 茂る
- 白 → 白い → 白々と 夜が明ける
- 黒 → 黒い → 黒々と した思い
さらには対になる表現がされるのもこの4色のみである。例を次に記す。
- 「赤」と「白」(紅白、赤白帽子など)
- 「赤」と「青」(赤鬼青鬼、信号機など)
- 「白」と「黒」(囲碁など)
赤と白の組み合わせとして最も代表的なものでは日本国旗の「日の丸」がある。また、物事をはっきりさせるときに「シロクロつける」と言うのも対になる表現のひとつだ。
ここまでくると特別感と説得力が増してくる。この事実を知った時、僕は驚愕した。
紅白の美しい組み合わせ
日本語の色の概念を理解すれば、何故こんなにも四季桜と紅葉の鑑賞が親しまれているのかが分かったはずだ。紅と白の組み合わせは日本人にとって馴染み深いものであり、見る者は美しいと感じる。著者も当初は秋に咲く桜が物珍しいから見てみたい、という短絡的な理由で訪れた。しかし、紅白に染まる眼前の景色が素直に綺麗だと感じられたのは、「日本語の色のマジック」と無関係だとは思えない。此処に足を運ぶには充分な理由になる。
静岡県河津町では冬に咲く「河津桜」が観光名所となっている。例年2月上旬の余寒*4 の時期に花を咲かせる。季節外れの桜を見るのは感慨深いものがある。
日本語の奥深さ
世界でも類を見ないほど表現が多彩な日本語。 ここで色と花にまつわる日本語の奥深さについて話をしよう。
赤と青
例えば「真っ赤な太陽」という表現があるが、実際は赤よりも白く見えないだろうか。元は「明るい」という語源があると考えると何ら不自然ではない。
「青リンゴ」や「青信号」というものも実際は「緑」だ。しかし青は「淡い」という語源がある。これは「淡い」から派生したとされる「若い」という言葉を知ると納得がいく。また青リンゴは熟せば赤くなり、青信号の反対は赤信号である。「赤」に対して「淡い」色ならば、青と言われてもわかってやろうと思う。(笑)
白と黒
「白ける」は「著し」のはっきりさせるという意味から「本当のことを言う」といった意味があった。さらにそれが転じて「素になる」というような意味に派生している。因みに「頭が真っ白になる」というのは「頭が空白になる」という意味で「空白」は「何もない」という意味を持ち、これ以上は分解できない。直接的には色とは無関係な言葉である。
「腹黒い」という言葉もおなかを見ても実際に黒いわけではないが、黒が「暗い」という意味を持つことから、意地が悪い、陰険などのネガティブな意味が伴っている。現代でも「ブラック企業」などでこの考え方が使われている。いつかメディアで話題になった芸能人の「オフホワイト」発言も若干の暗い要素があると自白したものだった。(笑)
因みに僕が好きな色は淡い色。
終焉の美
日本人には昔から「終焉の美」を重んじる精神があり、人や物に対してそれを体現してきた。古墳時代に最盛期を迎えた巨大な墓である「古墳」はそれを象徴する先駆けだ。
そして「花の終焉」にも日本語の表現が多数ある。
- 桜 → 散る
- 梅・萩 → こぼれる
- 紅葉・菊 → 舞う
- 百合・紫陽花 → 萎れる (しおれる)
- 蓮 → 沈む (しずむ)
- 朝顔 → 萎む (しぼむ)
- 椿 → 落ちる
- 雪柳 → 吹雪く (ふぶく)
- 牡丹 → 崩れる
満開の桜は美しいが、散り際も風情を感じる。花の美しさは儚い。
ここではっきり言えるのは、花であれ最期の時まで美しく表現しようとした先人たちの真心と、今日まで受け継がれてきた日本語は花と同様に尊いのだ。
【新潟県】遂に出逢ってしまった日本酒の魅力
目次
米生産量日本一の新潟県
記念すべき旅行記の第1弾は、2020年12月に訪ねた【新潟県】にスポットを当てる。何と言っても新潟県は、日本人の主食である米の総生産量全国1位を誇っている。農林水産省によると全国の年間の米の生産量は8,607,00t で構成比としては7.7%が新潟米である。次いで2位の北海道は7.3%、3位は秋田県で6.1%となっている。日本の食卓を支える新潟県への敬意と感謝を込め(米)、このテーマを取り上げる!
米といえば日本酒
新潟といえば米、米といえば日本酒だ。(※人それぞれ)
同年9月に父方の実家の北海道札幌市を訪ねた際は、世界3大ビール産地*1 とも言われることから ”ビールしか勝たん” 精神で連日ビール縛りの晩餐を決行した。(いつか記事にしよかな)
そういった独特のストイシズムを持ち合わせている筆者故、勿論この日は ”日本酒しか勝たん” わけで、早速日本酒の唎き酒ができる「ぽんしゅ館」へと向かった。
ワンコインで唎き酒「ぽんしゅ館」
「ぽんしゅ館」では受付で500円を支払うとお猪口とメダル5枚が渡される。およそ100種類の銘柄がズラリと並んだ唎き酒マシーンから地酒を選び、最大5杯の唎き酒を楽しめる。僕は2周目に行きかけたが、同行していた仲間に意欲が無かった為、渋々断念した。ただ酩酊状態になる前に止めてくれる仲間がいたことは心強かった。(笑) 立ち寄る際はご注意を。
CoCoLo長岡 本館2F ぽんしゅ館営業時間:11:00〜19:00(L.O.18:45)TEL:0258-94-4313 FAX:0258-94-4314
日本酒の造り方
近年、世界中で注目を浴びている日本酒。 "sake" はどのように造られているのか。日本酒は原料である米(蒸米)・米麹・水をアルコール発酵させたもので、その工程は大きく「麹(こうじ)造り」「酛(もと)造り」「醪(もろみ)造り」に分けられる。それを踏まえて日本酒の造り方を紹介する。
①精米
日本酒造りは玄米を精米にするところから始まる。元々の米の大きさを100とすると、食べる米の大きさは90%くらいで、日本酒用だと平均で70%前後、大吟醸になると50%以下になるまで磨く。食べる上でうま味を感じる米の外側は、日本酒では雑味となる。その為米を半分以上も磨かれたものは特に、華やかな香りとスッキリとした味わいを持つ。
②洗米・浸漬
洗米は米を洗い、糠(ぬか)を取る工程。家庭でご飯を炊く際に米を研ぐのと同様に、ここで米の糠や汚れを取らないとおいしい日本酒を造ることはできない。洗米の後は米に必要な水分を吸収させる浸漬(しんせき)を行う。また、米は磨くほど水分を吸収して割れやすくなる。アルコール発酵させる工程でも影響を及ぼす為、細心の注意が必要。
③蒸米
甑(こしき)と呼ばれる大きな釜のようなもので、米を蒸す。炊くのではなく蒸すことによって米のでんぷん質が変化し、酒造りに適した水分量に調整できるとともに、殺菌効果も補える。蒸した米はその後、日本酒の用途に応じた温度に冷ます。
④麹造り
麹造り(こうじづくり)とは、麹室(こうじむろ)という専用の部屋で、米に麹菌を繁殖させる工程で製麹(せいぎく)ともいう。麹造りには48時間かかるが、出来上がる12時間前くらいから ”麹菌が死ぬギリギリの温度まで上げる”。そうすることで麹菌が生きようとして、米を溶かす成分をたくさん出してくれる。麹菌はカビの一種であるが、とても繊細な生き物で、育てようとする米の水分量や温度の1度、2度の違いだけで仕上がりが天地の差になるという。
⑤酛造り
「酛(もと)」とは、アルコール発酵を担う酵母をを育てる酒母のことで、簡単に言うと「酒のもと」。麹と水を混ぜ合わせたものに、酵母と乳酸菌、さらに蒸米を加え大量に増殖させる。一般的には、2週間から1カ月で酒母が完成する。
伝統製法「生酛造り」
酒母を手作業で造りあげる製法が「生酛(きもと)造り」と言い、現存する酒造りの技法の中で最も伝統的な造り方である。生酛造りの場合は乳酸の添加はせず、蔵の空気中にある天然の乳酸菌を取り込む。乳酸菌が活動する前には 硝酸還元菌という水垢菌が立ち上がって何億種類もの雑菌を滅殺する。十分に硝酸還元菌に働いてもらった後にはまず蔵に棲みつく乳酸菌が活動を開始し、更に麹が栄養を出すことでレベルアップした乳酸菌が出てくる。
ここからは共通の酛造りの内容になる。乳酸菌の酸と麹が生み出す糖の力で、残ったほとんどの雑菌が死滅し、乳酸菌と酵母以外は生きられなくなる。そして酵母が立ち上がってアルコールが出てくると乳酸菌も死滅して、純粋な酵母だけの酒母が出来上がる。
【余談1】江戸時代を生きた酒職人の知恵
「生酛造り」の発祥は江戸時代まで遡る。この工程は特に徹底した温度管理や時間管理が必要だ。江戸時代の人は温度計も顕微鏡も無く、菌が活動しているという科学的知識も無い中、5感を駆使して生酛造りをやってきた。こういうことをやっている民族は日本だけである。これは世界に誇れる江戸時代の知恵だ。
明治時代中盤になると人工乳酸を使った速醸が主流となる。時代の流れと共に、倍以上の時間と手間が掛かり、安定的に行うことも極めて難しい生酛造りはほとんど行われなくなる。現在、全国千数百蔵の中でこれを伝承するのは、わずか数蔵のみとなっている。いつか必ず生酛造りの酒蔵*2 を見学したいと思う。
⑤醪造り
醪(もろみ)造りは酒母をタンクに入れ、麹、蒸米、水を3回に分けて加えて、約3週間から1カ月掛けてゆっくりと発酵させる。これを「三段仕込み」という。醪とはいわば "日本酒の前段階" で発酵を終えたものを濾すことで澄んだ日本酒が完成する。
⑥上層
発酵が終わると、醪を絞って日本酒と酒粕に分ける上槽(じょうそう)を行う。いつどのタイミングで酒を絞るかは、日本酒の味を決めるうえで非常に重要である。それぞれの酒蔵や日本酒の種類によって変わるほか、天候、成分分析値などを元に決定される。
⑦貯蔵
絞ったばかりの日本酒には、細かくなった米や酵母等の小さな固形物が残る。工程を細分化すると、それらを除去する「濾過」、その後の加熱処理「火入れ」を行い、熟成させるために「貯蔵」する。火入れでは加熱処理することによって殺菌され、日本酒の腐敗を防ぐ。約半年から1年かけて貯蔵・熟成された日本酒は、まろやかな味わいに変化する。そして熟成した原酒を、各銘柄に合わせてブレンドしていく。
出荷前には調合されたお酒にもう一度火入れをし、お酒を安定させる。その後、瓶やパックに詰めて、完成となる。
このように大変な時間と手間が掛かって造られる日本酒。バックグラウンドを知ると今までとは違った心持ちで味わえるのではないだろうか。
日本酒の種類
もう一つ、日本酒を語る上で欠かせない、清酒の種類について紹介しておく。
はい。(笑) このイラストが言葉で説明するより非常に分かり易い。原料と精米歩合によって "特定名称" が付く。精米歩合とは、原料の米をどれだけ削り、使用する部分が何%残っているかを示す値。米の中心まで削っていくほど、香りがよい、雑味の少ない清酒になるが、勿論使う米は小さくなる。精米歩合が小さくなるほど繊細、且つ、手間が掛かる為比較的高価になる。また、醸造アルコールとは、でんぷんや糖類を原料とするアルコールのこと。かつては防腐剤として用いられていたが、現在は香味の劣化を抑え、あと味をスッキリ整える目的で少量添加される。以下参考までに。
一般酒
純米酒
醸造酒
- 精米歩合70%以下、醸造アルコールを添加:本醸造
- 精米歩合60%以下、醸造アルコールを添加:特別本醸造
- 精米歩合60%以下、若干の醸造アルコールを添加:吟醸酒
- 精米歩合50%以下、若干の醸造アルコールを添加:大吟醸酒
「清酒」は日本酒のジャンルのひとつ
ところで日本酒と清酒の違いは何だろうか。お酒好きの人なら誰しも疑問に持ったことがあるだろう。日本酒を辞書で引くと、「日本古来の酒。清酒、合成酒、みりんなど」と記されている。他方、清酒は「水と米を原料にした、濁っていない酒」とあり、日本の酒税法における定義では「必ず米を使い、"濾す" 工程がある酒」とされている。つまり日本酒は、清酒やみりんなどを含めたお酒の総称であり、清酒はその一種という解釈で良いだろう。
また、国税庁では、日本酒の海外展開とブランド価値の向上を念頭に、2015年に「地理的表示における日本酒」の定義を指定した。それによると、日本酒とは「原材米に国内産米のみを使い、且つ、日本国内で製造された清酒」となっている。要するに、外国産米を使ったものや、海外で造られたものは「日本酒」ではないということだ。
感嘆した日本酒
その名は『天領盃』
「ぽんしゅ館」で唎き酒を楽しんだ一行は、お土産用のお酒と宿屋での晩酌用のお酒を求め、隣接するお土産コーナーへ向かった。僕は悩んだ末に唎き酒で気に入った 『山廃仕込*3 君の井』の銘柄を手に取った時、呼び込みの店員さんに声を掛けられた。そこで出逢ったのが『天領盃』だった。
言われるがまま一口試飲した時、感嘆した。まず、思ったのが "飲みやすい!美味い!" だった。次いで "至福" という言葉が頭に浮かんだ。コレだ!
全国最年少蔵元
実際に試飲した天領盃は『大吟醸プレミアム』という限定品で、それも新潟県限定で2000本のみの生産・販売というものだった。これは2018年に若干24歳にして「天領盃酒造株式会社」の全国最年少蔵元*4 となった加登仙一氏による "若い人に向けた親しみやすい日本酒" というコンセプトがあった。まさにその思惑通り、いとも簡単に虜になってしまった僕+他1名の推しで晩酌用には『天領盃 純米吟醸』(トップ写真右) を、お土産には『大吟醸プレミアム』を購入し宿屋へ向かった。
次の記事を読めば、同年代として一口飲んで買わない理由は無い。
奇しくも「マツコ会議」で放送
当日、12月5日(土) 放送の「マツコ会議」(毎週土曜夜11:00-11:30、日本テレビ系) を宿屋で見ていた。番組では "当時全国最年少酒蔵の買収者として24歳で新潟・佐渡にある天領盃酒造を買収した加登さん" として取り上げられていて、なんとも奇跡的な出逢いを感じつつ『天領盃』を呷った。
番外編
【余談2】清津峡渓谷トンネル
新潟県には日本3大渓谷*5 のひとつとして数えられる清津峡渓谷がある。長い歴史を持ち、大自然に囲まれたフォトジェニックな観光地として知られている。この旅イチバンの写真。↑
(※2021年1月現在臨時休坑中)
【余談3】越後湯沢温泉と笹団子
越後湯沢温泉。たまらん。説明不要。(笑)
そして新潟県で有名な和菓子として笹団子がある。餡が入ったヨモギ団子をササの葉でくるみ、スゲまたはイグサの紐で両端を絞り、中央で結んで蒸したり茹でたりして作られる。ササには殺菌効果があり、北越風土記によれば戦国時代に携行保存食として生まれたとされる。上杉謙信の家臣が発明したという俗説もある。
(Wikipedia より引用)
帰路に着く前にお土産として新潟県産コシヒカリを使った笹団子を購入し、どうしても "今" 食べたかったので隣の売店で別の物を購入し、実食。ヨモギの風味は抜群で美味しいのは言うまでもないが、何故に和菓子はどれだけ食べても飽きないのか。
【余談4】天領盃 大吟醸プレミアム とブランデー
年末、実家に帰省した際に、この日までとっておいた天領盃をお土産に持ち帰った。この木箱の存在感、凄みを感じるプレッシャー。栓を開けると、微かに米を感じれるほど香りが立つ。邪魔が無い。研ぎ澄まされた酒というのはこういうものなのか、と素人なりに思う。味は全くボケていないし、後味はスッキリ。これはインターバルが要らない危険なやつ。(?) 以前までは少し抵抗があった日本酒が、素直に美味しいと思えた。
因みに、右のブランデーは実家にあったもので、この日初めて飲んだ。「僕にはこのお酒はまだ早いなぁ」と呟いて隣にいた父の顔を覗くと、干し梅の如く渋い表情で居たから腹が捩れた。これは次回帰省する時まで残ってるわ。(笑)
銘柄紹介
①山廃仕込純米吟醸 『君の井』
唎き酒で飲んだのは純米大吟醸。こちらは宿屋で飲んだ純米吟醸。今回の旅では天領盃と不動の2トップ。
②純米吟醸 『天領盃』
宿屋で飲んだ純米吟醸。飲んだらハマる。
③大吟醸プレミアム 『天領盃』
お土産で買った大吟醸プレミアム。家族の評判もGOOD!通販なら買える可能性有り!?
天領盃酒蔵株式会社 公式HP
④ワイン酵母仕込み純米吟醸 『越後鶴亀』
『越後鶴亀』は有名だが、これは物珍しい。唎き酒コーナーで飲んだ感想は"完全にワイン"。ワイン好きの人にお勧め。
(以下注釈)
【日本】という我が国を考える
この時世で自粛が続く中、海外旅行をしたくてもできない。というわけで、日本国内への内向き志向を推進する。
日本の歴史・文化・伝統、、、僕が興味を持って新しい知識を増やしていくほど、日本について何も知らないことを自覚した。
今回は我が国について、”国”・”天皇”・”国民性”の3つに焦点を置いて日本人ならば知っておくべきことを綴る。
目次
”神話”ともに誕生した日本
宇宙が創った神
日本という国は神話から始まる。
僕の友人が以前「日本は仏教の国だ」と言った。半分合っていて厳密に言うと少し違う。日本特有の宗教的理念は神道である。
我が国に現存する最古の文書である『古事記』によると、天地が初めて現れた時、高天原(たかまのはら)*1 に最初の神が成る。
ここでいう神とは、キリスト教でいう神とは全く概念が異なる。『旧約聖書』での神は全能全知で完全な存在、”宇宙を創った神”である。他方『古事記』では”宇宙が創った神”でその違いは歴然である。
よって『古事記』や『日本書紀』に登場する神々は皆、人間的であり時に失敗や過ちを犯す。昼ドラに登場しそうな嫉妬深い神様もいて、ツッコミどころ満載の日本神話は見方を変えれば興味深く、面白い。
また、静岡県静岡市駿河区にある久能山東照宮に徳川家康公が祀られていることなどから、人が神に成ることもある。
【余談1】アニメから考察
神様はひとりふたり、、とは数えず1柱2柱(ひとばしらふたばしら)、、と数える。
つい最近地上波で放送した新海誠監督の『天気の子』のヒロインは天気の巫女として「人柱になる」というくだりがある。ここでは”神様への生贄”の意で劇中ではその後神化する運命にあるとされる。
また、昨年一世を風靡した『鬼滅の刃』に登場する鬼殺隊最強の隊士を「柱」という。作中の一般隊士は皆「柱」を”神”ように崇拝している。作者曰く「鬼殺隊を支える柱」という意味がある。強い鬼をも凌駕する隊士を「柱」という言葉を引用してまさに人間を神格化した秀逸な表現、というのは考えすぎだろうか。いや考えすぎだね。(笑)
皇室へと繋がる神祖
最初の神々は別天神(ことあまつかみ)5柱と神世七代(かみよのななよ)12柱であった。末っ子の伊邪那岐神(いざなきのかみ)と伊邪那美神(いざなみのかみ)は神々の総意で国を作り固めるように命ぜられる。そして伊邪那岐神から以下の3柱が生まれる。
- 天照大御神(あまてらすおおみかみ) :高天原(たかまのはら)を統治
- 月読命(つくよみのみこと) :夜之食国(よるのおすくに)*2 を統治
- 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと):海原(うなはら)*3 を統治
伊邪那岐神から天照大御神の系譜で男系の天孫として生まれる邇邇芸命(ににぎのみこと)はなんと、現在の皇室の神祖である。
そして縄文時代より『古事記』の物語の舞台は高天原から葦原中国(あしはらのなかつくに)*4 へと移行していく。
天孫降臨
天照大御神と高御産巣日神(たかみむすひのかみ)*5 は天孫である邇邇芸命(ににぎのみこと)に「葦原中国を統治するために天降りなさい」と命ずる。神のお告げを”神勅”という。
高天原と現実世界の繋がりは不明確だが、葦原中国は日本列島を示しており、命令通りに天照大御神の孫が地上に天降ったため「天孫降臨」という。邇邇芸命が降臨した地は宮崎県の高千穂峰といわれている。
こうして高天原の直轄地となった葦原中国は統治に向かっていく。
【余談2】九州地方への偏見
神様が降臨したとされる宮崎県は、日本の統治の原点ともいえる。
一説によると、弥生時代に誕生した日本を代表する地方政権、邪馬壹國(やまいこく)は九州を本拠地としており、水田稲作は九州から始まった。現代日本語のルーツには弥生語や縄文語があるが、これらの言語や古墳、土器などの文化も九州を中心に琉球・関西・関東へ伝播していったとされる。
日本の近代化の為、明治維新を推進した薩摩藩(鹿児島県)・長州藩(山口県)は九州から遥々討幕を目指した。
今日では、九州出身の男性のことを九州男児という。逞しさ・勇ましさといったポジティブな印象の反面、短気・自己中心的といったネガティブな印象を持たれることもある。しかし、史実の最前線を歩んできた九州人には、男気溢れる血と精神が現代にも受け継がれているのではないだろうか。
”皇室”の始まり
神から人になった「邇邇芸命」
(ここからも神様が登場するが、難しい本名は使わずに親しみやすく綴る)
地上に降り立った邇邇芸命がまずしたことは、求婚だった。というのは日本列島を統治する為には、力の強い神様の娘と結婚する必要があったからであり、単に女好きだったからではない。邇邇芸命は山の神の娘に恋し、山の神に「娘さんを私にください」と申し上げた。すると山の神は、「この娘には姉もいるから姉妹揃って嫁がせる」と仰った。現在では考えられないが、遠い昔の結婚観は家と家との結びつきであることからこういった姉妹婚があった。ところが姉はとんでもなく醜い容姿で、初見で驚愕した邇邇芸命は「姉はおブスなので結構です」と断る。山の神、激おこ。山の神曰く、「姉を側に置けば天つ神の御子の命は石のように変わらず永遠にありますようにと、また妹を側に置けば木の花が咲くように永遠に栄えますようにと願いを掛けた。しかし、姉を送り返すのだから今後、天つ神の御子の命は桜の花のように脆く儚いものとなるだろう」と述べた。
(とんでも神話終了。)
以降、現在に至るまで天皇命(すめらみこと)の御命(みいのち)は限りあるものとなった。この事件により、邇邇芸命とその子孫である歴代天皇の命に寿命が与えられた。
これが、天皇の先祖が神から人になった瞬間である。
「神武天皇」の誕生
寿命を与えられながらも山の神を身内にした邇邇芸命は子孫を遺し、海の神を身内にし、そして大和*6 の地で最も力を持った大和の神をも身内にしてしまうのである。
その大和の神の娘と結婚したのが、邇邇芸命の曽孫にあたる神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)である。天孫降臨から4代の時を経て、葦原中国を統治するに相応しい、強い霊力を持ち、正統且つ説得力のある存在になり得た。
このようにして天つ神(天照大御神)と大和の神の血を受け継ぎ、大宇宙と大自然の力を余すところなく存分に受け継いだ神倭伊波礼毘古命が、初代・神武天皇となる。
尚、神武天皇がいつの時代の人物か、という疑問に対しては諸説あり、学界では複雑な論争が今もなお続いている為、個人的な意見は自重しておく。『日本書紀』によると神武天皇即位が紀元前660年であり、これが一般的な認識である。地理学からの推論では遅くとも西暦100年より前であることは指摘されている。
万世一系
神武天皇は曽祖父にあたる邇邇芸命、さらに遡って天つ神である天照大御神、伊邪那岐神まで「男系」で繋がっている。「男系」とは男子によって受け継がれる系統、父方の血統をいう。
そして神武天皇から今上天皇*7 に至るまで「男系」で繋がっており、これを「万世一系」という。2700年もの間、血統が受け継がれている皇室は世界中どこを見ても日本にしか存在しない。
【余談3】更新不可能!?ギネス世界記録
東アフリカの角に位置するエチオピア皇帝家はメネリク1世を始祖として、紀元前1000年から3000年続く世界最古の皇室とされていたが、エチオピア帝国が1974年ハイレ・セラシエ1世廃位により消滅した。この結果、日本の天皇家が世界最古の皇室となり、「ギネス世界記録」にも認定されている。
”天皇”という称号を最初に用いた聖徳太子
時は飛鳥時代。小野妹子が第2次遣隋使として隋に派遣された記録が『日本書紀』・『隋書』に遺っている。第33代推古天皇が煬帝(ようだい)に宛てた国書の記述を一部抜粋して紹介する。
『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々』(読み下し文)
朝貢*8 をする代わりに、留学生たちに仏教を学ばせて欲しいというのが日本の要求であった。”ひいずるところ”は日本を指し、”ひぼっするところ”は隋を指す。支那王朝の皇帝のみが使用できる”てんし”という語を敢えて用い、「奉る」とすべきところを”致す”として日本の天子と隋の煬帝が同等であることを示した。しかし、これが隋の煬帝の怒りをかってしまう事になる。
その後の第3次遣隋使の派遣では、「天子」を用いると国交問題に発展する恐れがあった為、どう表現するかが鍵となった。とはいえ「倭国王」を名乗って隋の属国であることを自ら認めてしまうことはできない。そこで推古天皇の摂政として補佐された聖徳太子は次のような国書を宛てた。
『東の天皇、敬みて西の皇帝に白す』(読み下し文)
"皇帝"とは別の称号を用いることで最低限の配慮をしたと同時に、「朝貢すれども冊封*9 は受けず」という姿勢を示した。外交文書に記録された「天皇」の文字はこれが最初である。
結果的に日本の姿勢に対して、隋はこれを黙認し聖徳太子の奇策は功を奏した。他方、「天皇」はもともとあった「すめらみこと」の言葉に充てらられた字であるから、天皇称号成立より遥か前には「すめらみこと」とその概念は存在していた。
”日本”という国号の始まり
”日本国”の完成
飛鳥時代の日本は一言で言えば、律令国家を目指した時代だった。律令とは、刑法や憲法に基づいて政治を行う国家のことで現在の国々は律令国家といえる。独自の律令を持つことは独立国の証である。
第42代文武天皇治世では大宝元年(701年)に大宝律令を定めた。その一部には詔書*10 の書式を定めた法律があり、詔書には「日本天皇」と記すように規定されている。「日本」の国号と「天皇」の称号がここに法律に明文化された。藤原京で「日本」という国号とともに律令国家として完成し、世界基準で見る独立国家としての歴史はここから始まる。
実はその4年前には新羅に対して「日本」という国号を用いており、その5年後には遣唐使を派遣し、ここで初めて支那に対して日本国号を用いた。
因みに「倭国」とは支那王朝が付けた蔑称で”みにくい”という意味を持つ。
それに対し「日本」とは”日の登る国”という意味で、まさに推古天皇の国書にある「日出づる処」と同じ発想にある。また、天照大御神という太陽の性格を持った神を皇室の先祖に仰ぐ我が国にとって、この上なく相応しい国号である。
【余談4】『古事記』と『日本書紀』の裏話
大宝律令が発令される20年前のこと。第40代天武天皇は天武10年(681年)に『古事記』と『日本書紀』(以下『記紀』とする)の編纂*11 を命じた。現在では『古事記』は国内に向け、『日本書紀』は外国に向けてつくられたことが指摘されている。神話も編纂されているが、先述したように神武天皇即位が紀元前660年ということは、科学技術など何もなかった時代に1000年以上前の物語を日本の歴史として書き遺さねばならなかった。これが超ハードな仕事であることを認識してほしい。
当時の編纂者は、事実だけを忠実に書き記す事に信念を持っており、『記紀』では「分からないものは分からないから、取り敢えず事実だけを書いておくから、解釈は後の世の人に委ねる」という潔よくも生々しい心境も併せて遺している。
『記紀』の編纂者たちですら分からない事を、現代の考古学者が遂に知り得る日は訪れるのだろうか。
古より受け継がれる国民性
戦をせずに建国した日本
ここからは日本の国民性について綴る。神話まで話を戻そう。天孫降臨から日本列島を統治した経緯で、実に日本らしい手法がとられている。
邇邇芸命以下4代は戦をせずに、最高権力者たちを身内にすることで統治を果たした。古代から近世に至るまで世界中の帝国や王国などが建国を果たすときは大抵、戦争で敵を討ち負かし、新しい王朝が誕生した。しかし、日本では古代から「敵将を討ち、屈服させることでは国を統一することはできない」という考えがあり、「最も信頼されている者の味方になることで統率を果たす」のである。力でねじ伏せようとも、反発し統率がとれないことを理解していた。この手法は日本人の性格が表出している点であり、平和的で説得力が伴っている。
現在に至るまで日本国内での戦乱はあったものの、諸外国に対して侵略戦争を仕掛けたことも無ければ奴隷制を導入したこともない。日本人は最初から争いを好まない心優しい民族だった。
聖徳太子に学ぶ”一七条の憲法”の先進性
聖徳太子が制定したとされている、日本初の成文法が「十七条の憲法」である。ここにも日本人の国民性を代表する点があり、民主主義の先進性にも感嘆する。「一に曰く・・」から始まる書き出しを第三条まで噛み砕いて解釈すると次のようになる。
第一条を言い換えると「民主主義」を謳っている。世界中のほとんどの国家が専制独裁国だった時代に1番初めにこれが書かれているのは、類を見ない画期的な憲法であることを証明している。
第二条は「仏教」について謳っている。ここで飛鳥時代・平城京の景色を想像してみてほしい。今イメージしたのは奈良の大仏だったり立派な寺院ではないだろうか。如何にも当時の日本国民にとって仏教は何よりも大切な存在だった。五穀豊穣などを祈ることで知られている通りである。しかも太子自らが仏教の普及に尽力したにも関わらず、第一条を優先している。
そして第三条。ここでようやく「天皇」について謳われている。これが第一条にあっても何ら不思議ではない。天皇が治める国なのだから。それでも「民主主義」=”国民”を最優先に考え、次いで「仏教」=”仏の教え”が大切だと示している。しかも「天皇」を大切にせよ、ではなく天皇の「詔」を大切にせよという点に於いては、個人崇拝を求めるものではないことが推察できる。
この他にも人として正しい行いをすることの大切さが書かれている。7世紀に創られた憲法が「和と話の大切さ」を謳っていることがどれだけ凄いことか。世界の民主主義を1000年先取りした憲法と言っても過言ではない。これは日本の国民性を象徴したものではなかろうか。
天皇が知らす国
『古事記』では地上の国を統治することを「知らす」と表記している。そもそも「知らす」という言葉は現代では使われていないが、「知る」の丁寧語で「お知りになりなさい」という意味がある。これは天孫降臨の神勅で天照大御神から邇邇芸命に命ぜられている。
つまりその子孫である天皇にとって「国の事情を知ること」こそが、「国を治めること」と同義なのである。「知る」ことが日本の統治の本質なのであって、「支配しなさい」と「お知りになりなさい」とでは全く意味が異なる。では何故「知る」ことが統治に繋がるのか。
それは「知る」ということは「祈る」ことに変わるからである。天皇は祭祀を行う。例えば災害が起きて被災地の事情を知り、国民の悲しみを知ると、とても他人事ではいられなくなる。それが人情というものだ。歴代天皇は国と民を知ることに尽くし、知ることで自らの意思で国の安泰と民の幸せを祈り続けた。国民を我が子のように愛し、幸せを祈ってくださる天皇に対し、国民は本当の親のように慕い、力を合わせて国を支えてきた。それが我が国の国柄である。
天皇の統治とは、国民を知り幸せを祈ることで日本国民が慕い、自ずと国が一つになることだった。そしてそのような天皇の統治が2000年以上続き現在に至る。日本という国を一言で表すなら「天皇が知らす国」である。
明治時代、新憲法草案にあたり2000年以上続く我が国をどう簡潔に表現するか困難を極めた。熟考の末、井上毅発案の大日本帝国憲法は次のように表している。
(現代語訳:日本は天皇のお知りになる国である)
「治ラス」は『古事記』の「知ラス」より引用しており、日本という国をたった1行で見事に表現したのは神業といえよう。
令和 〜新時代へ〜
令和元年、5月1日。皇居宮殿で新天皇陛下が御即位された。天皇陛下は第126代であらせられる。即位後朝見の儀では、天皇陛下が初めて勅語を賜った。
『日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより,ここに皇位を継承しました。
この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。
顧みれば,上皇陛下には御即位より,三十年以上の長きにわたり,世界の平和と国民の幸せを願われ,いかなる時も国民と苦楽を共にされながら,その強い
ここに,皇位を継承するに当たり,上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し,また,歴代の天皇のなさりようを心にとどめ,自己の研
(宮内庁公式ホームページ)
前半は ”歴代天皇への敬意と天皇の在り方” を明確にお示しになった。後半には天皇陛下の大御心の核心たる ”祈り” が拝察される。
令和3年、年頭に公開された「天皇皇后両陛下のおことば」を併せて紹介する。
心溢れる内容となっているので是非ご視聴を。
コロナ禍で全世界が混乱する中、日本は他国と比べると感染者、死者ともに少なく抑え込めている。理由の一つには、天皇陛下のお祈りの力、そしてその陛下のお姿に真摯に国民が努力したことが影響しているのではないだろうか。
おわりに
日本人はあまりにも日本のことを知らなすぎると思う。「日本」という国号の意味、「天皇」とは何か、せめてこれくらいは子供に説明できる大人でいたい。今回は日本の素晴らしさを発信する第1弾として「起源」だけを記事にするつもりが想像以上に長丁場になってしまったことと、真面目に綴るだけになってしまったことは反省したい。しかし文字を綴る最中、天皇への敬意と国柄の誇らしさで胸が熱くなってしまうのは不可避であるし、どうしたらこれを冷静で語られようか。もう少しだけ付き合ってほしい。
神話とともに成立し、2000年以上続いた国。世界の国々の歴史を僕は語れないけど、日本ほど素晴らしい歴史を持っている国は他にあるだろうか。
『魏志』『倭人伝』には「日本人は争わない、盗みもしない」と記されている。江戸時代以降の欧米人は皆、日本人の誠実さ、善良さ、勤勉さに感嘆した。この時、世界最高水準の教育制度「寺子屋」があった。
大正時代、第1次世界大戦後に発足した国際連盟。その加盟国である強国(米・英・仏・伊)に対し、規約に「人種差別をしない」という文章を入れることを世界で初めて堂々と提起したのは日本人だった。
有色人種が奴隷のように扱われていた時代に、アジア圏の平和を願い、欧米列強に肩を並べて立ち向かい、遂には独立を保った。第2次世界大戦では300万人以上の尊い命が失われ、世界最貧国と言われるほどにまで落ちた。しかし、日本の敗戦から15年以内にアジアの欧米諸国による全ての植民地は独立を果たした。終戦後、外地に残った残留日本兵はインドネシア、ベトナムの独立の為に命を賭した若者もいた。日本人は身を挺して世界の平和に貢献したのである。
先の大戦で全てを失った日本だったが、終戦から僅か23年で百数十の国々を抜いて世界第2位の経済大国へと復興を遂げる。(現在第3位) 明治期の奇跡の成長を再び成し遂げたのである。周期的に推測すればこの先10~20年には更なる経済急成長期が訪れるかもしれない。そしてそれを牽引するのは我々の世代に他ならない。
日本はまた災害大国でもあり、数々の災難に見舞われても、どんな時でも皆が力を合わせて支え合ってきた。それが日本という国だ。歴史を知ることは自分のルーツを知ることでもある。そして歴史は過去から現在、現在から未来へと繋がる。明るい未来の世界を見る為に我々はまた歴史を学ぶ。
今の日本が何故こんなにも平和で、安全で、清潔で、豊かであるか。何故こんなにも文化に富み、高い技術を持ち、他国から尊敬されているのか。全ては2000年の歴史を紡いできた先人たちの努力の積み重ねだ。2020年8月、公益財団法人日本交通公社(JTBF)と日本政策投資銀行(DBJ)が訪日外国人意識調査を実施した。それによると「コロナが終息したら旅行したい国・地域」に於いて日本が第1位という結果だった。これは日本人として素直に喜ばしいことだ。
我々の祖先が愛に溢れた優しい人たちであったことを誇りに思う。
そして、この国に生まれた幸せをいつまでも噛み締めていたい。
我が国の歴史を知るこの瞬間、僕たちには自尊心と勇気が漲る。
大切な時間を割いて通読してくださり、誠に有難う御座いました。
(主要参考文献)
(以下、註釈)