へそで珈琲を沸かす

日本の歴史、伝統、食文化などを紹介する旅行記

【北海道】最後の武士に想いを寄せて

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『西洋式星形要塞・五稜郭』 北海道函館市五稜郭町 (2020/09/21)

著者にとって思い出の地、北海道。札幌市の祖母の家から車でおよそ250km。道南の果てで、日本最後の武士の生き様に心を打たれた。

 

日本初稜堡式城郭・五稜郭

稜堡式城郭(りょうほしきじょうかく)とは大砲を主要防御武器として設計された築城方式のことで、大砲は互いに死角を補うように全方位に展開される。そのため星形要塞ともいわれる。

函館市にある五稜郭は、幕末に箱館を開港した際に、函館山の麓にあった箱館奉行所の移転先として築城された。設計・建設は箱館奉行所に勤務していた蘭学者・武田斐三郎で、箱館ではアメリカのマシュー・ペリー提督とも会談している人物である。面積は約251,000㎡で東京ドームの約5倍の広さがある。(公式ホームページより)

明治時代では戊辰戦争における新政府軍と旧幕府軍との最終決戦の地として知られている。歴史好きの人は是非、五稜郭タワー公式ホームページ」を一読していただきたい。

www.goryokaku-tower.co.jp

最後の武士「土方歳三」はなぜ戦い続けたのか

本題に入る前に一言。自分の言葉には責任を持っているが、史実以外の部分については個人の推察に過ぎないことを予め断っておく。

前述した戊辰戦争の最終決戦(以下箱館戦争)で、新政府軍を相手に最後まで戦い続けた新撰組副長・土方歳三。勝機のなかった戦いにも拘らず何故抗い、独り戦い続けたのか。

  

考察① 滅びの美学の否定

我が国には「滅びの美学」という言葉がある。これは過去の記事で日本語の奥深さを紹介した際の「終焉の美」の考え方と共通する。(こちらも面白い記事なので是非↓)

atozworld.hatenablog.com

 

ここでの「滅びの美学」とは、到底勝ち目のない敵に立ち向かい、死を覚悟して勇ましく散っていく人の姿をいう。我が国では「新撰組」をはじめ、大戦時の「神風特攻隊」、個人では小説家の「太宰治」、同じく政治活動家でもあった「三島由紀夫」などに充てられることが多い。

土方歳三もまた「滅びの美学」に過ぎないと評する者がいる。果たして本当にそうなのだろうか。一度そう決めつけてしまうと、分かった気になってしまい、何を成し遂げようとしたのか、何を望んでいたのか、心情を理解することを怠ってしまう。「建て前」だけで命を掛けられるだろうか。

。土方に滅びの美学を感じるかは人それぞれだが、敢えて言おう。少なくともそれだけが理由ではなかった

 

考察② 前将軍・徳川慶喜への忠誠心か

他方、土方は「前将軍・徳川慶喜のために戦い続けた」という説もある。確かに土方含む新撰組隊士は幕臣にとりたてられているから、主君は第15代将軍の徳川慶喜であった。この考察は時代背景を分かりやすく解説しながら紐解いていく。

尊皇攘夷運動

1867年、徳川将軍によって朝廷へ政権を返上した。(大政奉還)これにより徳川家康が1603年に江戸幕府を開いてから約265年間続いた江戸時代は幕を閉じる。大きなきっかけとなったのはペリー来航を引き金にした日米和親条約日米修好通商条約だった。一気に外国からの圧力がかかり、それに対抗しようと考える人々もいた。 

このように外国を倒して朝廷の権威を重んじる考えのことを尊王攘夷(そんのうじょうい)という。その中心であった長州藩は、実際に外国船を砲撃しているが翌年には下関砲台を占領されている。 他方、薩摩藩島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回りの藩士たちが殺傷した。(生麦事件)しかし、これもまた報復を受けることになる。

プチ解説「尊王攘夷派」

尊王攘夷の「尊王」とは、王=すなわち「天皇」を敬うことで、「攘夷」は外敵(外国の侵略)を撃退することに由来する。元々は「幕府の為に」ではなく「天皇の為に」という尊王論と、外国人を追い払うという攘夷論が結びつき、下級武士を中心として尊王攘夷運動が起こった。幕末には外国船が頻繁に日本近海に現れるようになり、食料や水の補給、日本との交易などを理由に江戸幕府に対して開国を要求した。

開国・倒幕へ

長州藩などの尊王攘夷派は、次第に外国を倒すことは難しいというように考えを変えていく。たしかに日本の鎖国時代に近代化を図っている諸外国を打ち破ることはかなり厳しいものだった。このような倒幕の動きで有名なのが薩長連合である。西郷隆盛大久保利通薩摩藩と、木戸孝充や高杉晋作長州藩との連合であり、仲介を行ったのが坂本竜馬である。これが後の新政府軍になる。

プチ解説「大政奉還の狙い」

このような倒幕の流れを受けてついに徳川将軍は朝廷に政権を返上することとなる。これは薩長による武力討幕を避け、徳川家の勢力を温存したまま、天皇の下での諸侯会議であらためて国家首班に就くという策略だった。

幕府が目指した公武合体

尊王攘夷に対して公武合体という言葉がある。公武合体(こうぶがったい)の「公」は公家 = 京都の朝廷(天皇)を指し、「武」は武家 = 江戸の幕府を意味する。幕府は外国が開国を要求してくる難局に、もはや江戸幕府の力だけでは立ち向かう事ができないと考え、朝廷と幕府を合体させ国難に対処しようとした。弱まりつつある江戸幕府の体制を、朝廷の伝統的権威と結びつけることで政治を建て直そうとした。

プチ解説「新撰組の結成」

1863年会津藩薩摩藩を主とする公武合体派によって長州藩を中心とした尊皇攘夷派と急進派の公卿たちを京都から追放するといった八月一八日の政変文久の政変・堺町門の変)という抗争が起こった。

この八月十八日の政変において主力であった壬生浪士組新選組の前身)は、その内部で尊王攘夷派として寝返り江戸に戻った新徴組と、幕府守護の為に京都に残った者に分裂した。そして京都に残った者たちは会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)配下京都守護職として新撰組を結成した。

 鳥羽・伏見の戦い

1868年1月3日、明治天皇王政復古の大号令を発し、政権は朝廷へと返上され正式に江戸幕府の廃止が宣言された。そして、旧幕府軍と新政府軍との内戦、戊辰戦争が勃発することとなり、土方も幕臣として新選組を率い幕府存続のための戦いに身を投じることになる。鳥羽・伏見の戦い、これが戊辰戦争の初戦である。

旧幕府軍は外国から近代兵器を取り入れた新政府軍の圧倒的戦力の前に完膚なきまでに叩きのめされた。アームストロング砲といった強力な近代兵器による爆撃に対し、日本刀で立ち向かったとしても勝機などもとよりあるはずがない。土方はこの時には既に、自分の運命を悟っていたのではないだろうか。

 

前置きが長くなったがここでの考察は以下に結論づける。

戊辰戦争が勃発してまもなく、徳川慶喜は自ら政権を手放し、鳥羽・伏見の戦いでは家臣らを置いて自分だけ江戸に逃げ帰った。その後慶喜は新政府軍にさっさと恭順する。家臣らも次いで恭順する中、さして縁もない土方は戦い続ける道を選んだ。

したがって土方は慶喜の為に戦ったのではなかったと言える。 

 

考察③ 己の武士道と盟友・近藤勇

土方が戦い続けた理由、その答はここにあるのではないかと著者は思う。

まず、一つとして王政復古の大号令鳥羽・伏見の戦い旧幕府軍が朝敵(天皇の敵)とされている。ここまでの流れが、薩長の謀略によって行なわれたことが納得いかなかったのだ。正々堂々とは言えない策略によって「賊軍」のレッテルを貼られたことに、幕府側の人間は憤怒した。新撰組副長の誇り高き男、土方はどうしても許せなかったはずだ。

そしてもう一つ、土方が戦い続けた理由の最大のものと考えられるのが、新撰組局長・近藤勇の存在だ。

甲州での敗北の後、近藤・土方は新政府軍に包囲された。切腹しようとする近藤に土方は、「今死ぬのは犬死であり、幕府歩兵頭・大久保大和が、諸方の歩兵をとりまとめるため出張していると言えば申し開きはできる」と説得した。要するに、変名を使って投降して極刑を免れようとしたのだ。新政府軍本営に出向くと言う土方を制して、近藤は自らを犠牲にして本営に出頭し、その間に土方以下を脱出させた。

しかし、新政府軍本営で、大久保大和は新選組局長近藤勇であることが露見された。土方の願いは叶わず、近藤は1868年4月25日、板橋宿の馬捨場で、切腹することも許されず、罪人として斬首された。

新政府軍は近藤を新選組局長と知りながら、武士としての切腹ではなく、罪人として斬首した。これは武士の誇りを泥足で踏みにじったことに等しい。盟友を犠牲して生き長らえた土方は、せめて切腹させてやりたかったと後悔したことだろう。そしてこれは幕末に命がけで任務に当たった新撰組を根底から否定するものであり、新撰組副長として断じて許せるものではなかった。もし自分が降伏するようなことがあれば、新撰組の否定を自ら認めることになる。それでは新撰組を信じ、命懸けで戦った隊士たちにも顔向けができない。

土方は最後の決戦に向け、北を目指した。

 

誇り高き武士道の精神は運命を貫く。

 

1869年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始された。土方の最期については諸説あるが、乱戦の最中に腹部に銃弾を受け、落馬したとされる。奇しくも盟友・近藤と同じ享年35であった。それから一週間後、榎本武揚旧幕府軍幹部は降伏し戊辰戦争終結へ向かう。幹部の中で土方は一人、ついに降伏をせず、己の武士道を貫き、新撰組の誇りを守った。

 

時世の句は「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ

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『最後の武士の最期の勇姿』 五稜郭タワー展示

 

おわりに

先述した「滅びの美学」について列挙した日本人に限らず、僕たちはどうしても先入観を持ってしまう。だが、いずれもそれだけの理由で命を賭す者はいないだろう。

新撰組は日本史上では敗者(歴史的に見て間違った勢力)となった。しかしそれは開国して産業が発展し、恵まれた現在があるからこそ言えることだ。元から尊王派だった彼らは鎖国時代に突如現れた、得体の知れない異国人が恐ろしかった。ただ国を、天皇を、家族を守りたいという真心を抱いていた。それだけは当時の新政府軍人であっても、外国人も、現代人でさえも誰も嘲笑うことはできない。彼らが何を想い、何をなそうとしていたのかを見つめ、その魂に想いを寄せて明るい未来を考える。

 

旅の本棚

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箱館の街並み』

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『世界3大夜景』 函館山展望台

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『雲丹蟹丼と帆立』 うにむらかみ 函館本店